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ニュース&トピックス

2011.12.5
壬申の乱遺跡を訪ねて・・・大津京 
瀬田の唐橋 葬り塚
■天智天皇
天智天皇は、名を葛城皇子といい、皇位継承者とされたときに中大兄皇子と称した。626年に飛鳥で生まれる。即位前は中大兄皇子。同母弟に大海人皇子。大友皇子は天智の子。645年、中臣鎌足とはかり、当時権力を握りつつあった蘇我入鹿を暗殺したことは有名。663年、白村江の戦い(唐・新羅連合軍との戦い)で敗れた中大兄は、戦後唐の侵攻に備えるため、近江大津宮(大津京)に遷都(667年)、その翌年に即位し、天智天皇となった。大津京時代、庚午年籍(日本最初の戸籍)の作成や時を告げる漏刻の設置で知られる。即位4年後の671年崩御。その翌年に壬申の乱が勃発し、大津京は廃絶した。
将軍塚
六六七年に天智天皇が新しく大津に都を開いたが、天皇が亡くなった後、六七二年に壬申の乱がおこった。
これは天智天皇の子大友皇子(弘文天皇)と天皇の弟大海人皇子(のち天武天皇)の争いで瀬田川を挟んで大激戦が展開した。
戦いは近江朝廷軍(弘文天皇)の敗北となり、この将軍塚には朝廷軍の将軍岸智尊をはじめ中臣百足、蘇我真目、犬養五十君、間川千秋、谷直駒、谷塩手らの将軍は斬殺され他二十余人を葬っていると言われている。又、東レ北門内にある功臣塚にも朝廷軍の西戸村史をはじめ戦死の功臣を葬るといわれている。
葬り塚
六六七年に天智天皇が新しく大津に都を開いたが、天皇が亡くなった後、六七二年に壬申の乱がおこった。
これは天智天皇の子大友皇子(弘文天皇)と天皇の弟大海人皇子(のち天武天皇)の争いで瀬田川を挟んで大激戦が展開した。
戦いは近江朝廷軍(弘文天皇)の敗北となり、この間に大津宮は焼かれ、大友皇子は粟津山前(小茶臼山)に逃れ矢創を負っておられたので7月23日自ら縊れて崩御された。25才在位僅か8ヶ月であった。最後まで陪従していた。物部連麿、赤田常世、赤田彦継など6名が皇子の遺体を大津宮の大茶臼山に葬り自らもその場で自刃した。現在、葬り塚として、大友皇子とその子供、皇子に付き添っていた舎人達を葬ったと言う5コの小さな塚(葬り塚)が秋葉神社の奥に残されています。中央に位置する一番大きな塚が大友皇子を葬った墓、右手奥の塚が大友皇子の子供と言い伝えられている大友与多王の墓と言われている。

粟津・膳所周辺には、天智天皇・弘文天皇を祀った、石坐神社・御霊神社・石山寺(三十八社五明神社)霊牌を祀る法傅寺、戦士した従者を祀る功臣塚、園山と多くの遺跡があります。瀬田の唐橋・・「橋を制する者は天下を制する」と言われ、橋の位置を現在の場所に定めたのは織田信長です。    岩崎辰雄
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